「躁鬱大学」躁鬱人のバイブル

作家、建築家、絵かき、音楽家・・・の坂口恭平さんの書いた「躁鬱大学」という本を読みました。

この本は傑作でした。
スルスル読めました。
というかスルスル読める人はこの情報が必要な人なのでしょう。
波乱万丈な人生ですが、ある意味天才ですね。

そして読んでいるうちに「これ俺のことじゃん」と、自分もまぎれもなく「躁鬱人」であることに気付かされます。私の場合は、ですが。
あてはまりすぎて怖い。

この本は全人類の1%の「躁鬱人」が「非躁鬱人」の世界の中でいかに生きるべきかというテーマを、伝説的な精神科医である神田橋條治先生の語録をもとに、坂口氏の実体験をあわせて一気にかきあげた本です。ソクラテスとプラトンみたいですね。

精神科医や支援者のもとにいっても診断や薬はくれども、こういう詳細なノウハウや哲学みたいなものはなかなか教えてくれず、あまつさえ多数派に同化させようとする支援者もまだまだ多かったりします。

借金玉さんの本(発達障害サバイバルガイド 「あたりまえ」がやれない僕らがどうにか生きていくコツ47など)に類する当事者研究本の一種といえるかもしれません。

早朝に起きて毎日8000字、2週間で書いたと言うからすごいです。





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ちなみに、もととなった神田橋語録はこちらからダウンロードできます。
本文も、口恭平さんのnoteで全部読めます。神や〜。

では、内容のさわりを紹介しますね。
例えば「資質にあわない努力はしないほうがよさそうです。」というカンダバシの言葉を坂口は「努力は敵」と強めます。

躁鬱人は誰かみたいになるということ自体が身体にあっていません。
ほおっておけば、自然と自分でやりやすい形を見つけていきます。
そもそも、きっちり、かっちりというのは、躁鬱人の最も苦手とするところです。

躁鬱人は、まずもって、自分というものがなく、人の目を気にして、人を喜ばせることが好きで、感覚的に生きています。そして、よかれあしかれ、言葉の影響を受けやすく、言葉で縛られてしまいます。

躁鬱人にとって灯台の明かりのような、カンダバシの言葉からインスピレーションを得て紡ぎ出される坂口の言葉は珠玉です。
躁の時の過ごし方、鬱のときの過ごし方。躁鬱人としての生き方が、それぞれつづられています。
カンダバシ語録と混ざっていますが、紹介します。

「他人と比べてしまう」というのはほぼ生理現象なので、毎日うんちやおしっこをするように自然なこと。
だから無理してやめる必要はないし、むしろトイレみたいに吐き出せる場所を増やせばいい。
そういって坂口氏は自分の携帯電話番号を公開しています。

平穏と充実は両立します。
躁鬱人は基本的には人を避けつつ、理解者とは密に過ごす。
灯台になる人を定めよう。
思いつきは実際の行動に移す前にまず文書化し、理解者の判断を待つ。これ大事。
電話やメール、ツイッターなどのSNSを通じて様々な分野で人と触れ合う。
でも、直接人と合うのは有害であると知る。
ほどほどの知り合いを無限に増やすのが重要。

浪費よりも快感を感じるんことができる貯蓄を覚える。
借金は一切関わらぬように。

ぶっ飛んでいるのは思いつきだけで十分。
行動は極めてシンプルに。

この道ひとすじは身にあいません。
躁鬱病の人は我慢するのが向きません。
自分の生活を狭くしないことです。
退屈は鬱への入り口。
他人と触れる分だけ摩擦が増えるので鬱に近づきます。
躁鬱人は批判される環境にいる必要が一切ありません。
躁の力は自分のためか、人間以外、文章や芸術に使いましょう。
広く広く手を出すこと。頭はにぎやかにして一流の中途半端な人、器用富豪を目指しましょう。

孤独だから鬱状態になったのではなく、鬱状態だから孤独を感じるのである。
(これは躁鬱の場合で、単極性の鬱はまた違うかも)
自己否定文にはカギカッコをつけろ。
鬱のときは心臓を休めるイメージを最大限まで高めて横になっていましょう。

「自分とはなにか?」とは考えず、いつも今何をやりたい?と自分に聞いて、自己中心的な自分を恥じずにとにかく自分の要求をかなえてあげてください。

そして躁鬱超人(ニーチェかよ!)になりましょう。

さて、個人的にはADHDとASD(特にいわゆるHSPタイプ)のハイブリッドと躁鬱人の異同に関しては興味のあるところではあります。
学術的に疫学的にも生物学的にも、このあたりはいろいろ言われているようですが、もともと類型診断です。
そういうタイプの人も自分のことだと思って読めば活かせる言葉がたくさんありますよ。

どうです、だんだん読みたくなってきたでしょう?
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(ぽちっ)

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