オンライン対談 精神科Doctor アルプスを挟んで吠える! 森昭憲(富山)×樋端佑樹(長野)

富山県リハビリテーション病院子ども支援センターで子どものメンタルケアをしつつ、子どもの代弁者をしている森昭憲先生。学校や先生に対して子どもに代わってその苦しみを辛口で吠えまくってます〜。

そして教育現場にも長くいて、今はPonteとやま(富山のごちゃまぜカフェ、みやのもりカフェを拠点)で居場所、学び、体験、就労支援などの場を運営しつつ、SCなどもしているニンジャのような水野カオルさん。

縁あってつながった富山県のお二人と、一度、オンラインで話してみますかといっていたのが、早速公開企画になりました。

ADHD 的にはサクサク話が進むスピード感が心地よいですね。

ZOOMでカタリバをつくって集うというのは、コロナ下でうまれた新しい遊び方です。
オンラインでつないだ対話の場をつくり、対話の総量を増やすというのもやりやすくなりました。
タテ・ヨコ・ナナメいろんなものをぶった切ってつなぎどんどんやればいいかと思います。

備忘録的に今回出た話題の一部を紹介します。
どこも状況は同じだなあ・・。

「呪いの言葉」をかけないで。

外来の診察室でも、子どもたちを診療していると傷ついている子どもとたくさん出会います。
「学校教育が本当に問題なのだけど、本人や親のせいにして、先生や学校はなかなか変わらない。」と森先生。

先生たちは「最高学年だから」とプレッシャーかけたり、「このままだと高校にいけない」「社会でうまくやっていけない」などという言葉を責任をもてないくせにかけてしまいがち・・。
子どもに対して、不安を与え脅しみたいに感じになるとその言葉にだんだん縛られていっちゃいますよね。とくに字義通りとるASDがあるとそうなってしまいます。

そう、これはまさに「呪い」です。

先生たちをはじめ大人には、「◯◯しないと△△できないよ」という言い回しや、「◯◯すべき」ということから入ったりするのはやめましょう。
◯◯できると△△といういいことがあるよ。と言うだけでも違います。
大人は子どもに対して世界の代表にならず、主語は大きくしないで一人の人間として対等に接してもらいたいなあとおもいます。

やること多すぎ、盛り込みすぎ

しかし、これらの問題の根っこにはそもそも大人の社会も忙しすぎて余裕がないというのがあります。
さらに情報も高度化して、大人が子どもに期待することが多くなりすぎて、◯歳までに何を身につけていかなければいけないと焦った大人が子どもを追い込みます。

社会に出たばかりの若者に即戦力を期待してしまっているところも大きな問題です。
職場などでも以前は入職して数年は初心者マークだからと、もっと余裕をもってじっくり育ててくれていたのだと思うのですが、今は即戦力をもとめ、そしてそれを教育に押し付けてしまっている。
さらに第一次、第二次産業の衰退で、そもそも働く場の多様性もなくなっています。
しかも自営よりは雇われて働く人が主流・・。

その結果、だれにとっても一般就労たいへんになってしまっています。
知的・発達障害などのハンディをもっているとなおさら大変です。しかも賃金も安い・・。

このようなことを背景に社会から学校教育への期待が高まっているので学校も大変です。
それなのに教諭には医師の臨床研修みたいな期間はなく、初心者マークの間もいきなり担任をまかされたりします。
小学校では担任の先生は密室になる学級王国の王様になってしまうのも問題なのかな・・と。

部活動などは切り離して地域に出せばいい

このように、社会は教育になんでも詰め込んで、先生たちに期待しすぎているのだと思います。
そしてそれを学校もさばききれていない現状があります。

森先生の「学校教育ではいかに何かを減らすかという視点をもってやるべき」というのは首がもげるほど頷きました。

特に学校での部活なんかはとっととやめてしまって、地域で広域でやればいいと。
熱血で指導大好き、部活動命の先生などは、学校ではなくそっちにいけばいいんですよね。
実際、欧米なんかはそんな感じのようですよ。
北欧など先生は高学歴で学習面を担当し、事務や掃除などは教師とは別の人の仕事です。
そして地域のスポーツ指導者やアーティストが資格をとって子どもたちのアフタースクールを支えています。各地にユースセンターがあり、若者を支援するユースワーカーなんかもいたりします。

中学の部活なんかもスポーツや音楽を楽しみたいのに、理不尽な人間関係がついてくる必要はありません。学校行事なんかも複数の目的を盛り込みすぎです。
そういえば不登校だったけど、松本の山雅のコミュニティで育ったような子どももいました。

アフタースクール施策の充実と子どもにも年休を

そもそも学校教育が絶対、学校も休んじゃダメというような価値観が強すぎます。
義務教育ってのは子どもが学校に行く義務じゃないですからね。
子どもはその子にあった学びを求める権利をもっているだけです。

嫌なことを耐え忍び頑張ることが美徳みたいな文化がありますね。
それが、この国の病理、過労死、過労自殺までつながっているのでしょう。
いじめやハラスメントなどの根っこにもなっているでしょう。
そもそも大人たちは楽しく生きている姿を子どもたちに見せられているのでしょうか?

子どもたちが好きなもの見つけ、広げ、それを大切にして自分を育てるためにアフタースクール施策の充実、そして休む権利、「年休」を明文化してほしいですね。

たまたまコロナ禍で社会的にも学校を休んでいいよというのが保証されました。
これを奇貨として、学校の文化も多様性を受け入れるように変化することを期待してたいところです。

ついでに内申制度も出席日数も廃止してほしい。
これらもただ教員にしっぽふる子をつくってしまうだけです。
そして不登校になったらだれにとっても意味もないタッチ登校なんてやめてしまえばいいのです。

高校ももっともっと情報開示をもっとして、選べるようにしてほしい。
そして、だれでも入れるようにして、その一方で自分にあったところに移るとか、立ち止まる(ギャップイヤー)などの選択も当たり前にすればいいですね。

学校や勉強がつまらなくなるのはどうして?

森先生曰く、「スクールってギリシャ語のスコラからきていて、奴隷に仕事をさせてギリシャで暇な市民が、愛とはなにか、生きるとはなにかと語っていたのが始まり。知ること、出来るようになることってそもそも楽しいことのはず。」

なのに、どうして学校が、学びがつまらなくなってしまうでしょう。

そもそも大人が学ぶ目的や意味もしめせず、ただ教えても子どもたちが興味をもてるわけがありません。ただ、つべこべ言わずに従えということになってしまいがち・・・。
学習指導要領にしても上から下にむかって指導というのが一方的なのです。
一体、何様のつもりでしょう。
森先生は、教科書はつまらないから、図表ばかりよんでいたそうです。教科書ってなんであんなにつまらないんでしょうね・・。

今の時代は知識の獲得という意味ではいくらでも手段はあるので、子どもがそのことを面白いと思ったらあとはちょっとの助けで多くの子どもは自分で学ぶこともできます。

そういえば先生の経験もあり起業したLXデザインの金谷さんが推進する「副業先生」なんかは、実は学習指導要領にも沿って、いろんな人が教育にかかっわってもらって、現場の先生たちにも元気になってもらいたいとマッチングをやっています。
オンラインも利用したら手軽にできるし面白い試みだと思います。

複業先生
複業(副業)で先生をしたい人と学校をつなぐ教育特化型の複業案件プラットフォームです。これまでの仕事での経験を活かした授業をすることができます。

教員も社会を知り、対話を学ぶために営業職をしたり、いろんなことをしてから教員になる道があるといいですね。

不登校が順調に増えている、オルタナティブな選択肢をもっと

学校の現場では子どもたちをぴしっと統制している先生が指導力のある先生としてもてはやされ、子ども目線で対話を志向する先生も強い先生にはものを言えない空気があるそうです。
そんな中で学校行っていない子どもが問題とされがちです。
でもそれは違うと思います。

大人の生き方は多様なのだから、義務教育の年代でも、もう少し多様な教育の場の選択肢が広がればいいのではないかと思います。
親ガチャがはずれてもチェンジはなかなか難しいけど、先生や学校はもっと選べればいいと思いますね。
逃げ場があって、選べるからこそ、はじめて対等な土俵にのれて対話ができるというところもありますから・・。

しかし学校を変えるのは短期間ではすごく難しいこと。
では外側にいる私たちはどうすれば?
学校行かない子がマジョリティになればいい。オルタナティブな選択肢が増えていくというのが一つの活路かもと・・・。
そして今の傾向で行けば順調に学校行かない子が増えている!
しかし、それに対する対策がなさすぎる。

教育機会確保法なんかも学校現場で知られていなかったり・・。
トライアングルプロジェクトというのも知らなかったけど、家庭と学校と、放課後等ディなどで協働してやっていきましょうねということのようです。

家と学校以外の場所(サードプレイス)が元気で存在感あれば、家や学校ガチャがだめでもリカバリーできますから・・。
あまりにハズレが続くとガチャ引く元気もなくなってしまいます。

やっと医療につながったときにはがっかりさせないようにはがんばります・・💦

義務教育は誰のどんな義務?

今回は義務教育って誰のどんな義務でしょう?というのがテーマでした。
それは大人たちの義務だとおもいます。
どんな子も、その子にあった育ちの環境を保証すること。
そのためにはその子をちゃんと見て、聞いて、その子の好きなものを大事にして、必要なことは絞って丁寧に伝えるとこうことです。

「傷ついてくる子があまりに多い。小さければ小さいほど、子どもに敬意をもって優しく接しましょう。子どもを甘く見ている大人が多すぎる」と森先生・・。

結論!「子どもナメんな」ってことですよね〜。

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