インクルーシブ教育システムと特別支援教育

コラム

インクルーシブに向かう社会

障害者権利条約にもとづく国連からの勧告で日本の特別支援学校、学級のあり方がインクルーシブでないと否定されたそうです。

特別支援学校、学級には地域での普通教育からの排除という側面があるのは確かですし、インクルーシブ教育、インクルーシブ社会は目指していくべき方向だと私も思います。

しかしこのように外圧と同調圧力を利用しないと変われない、大事な対話の場である政治が機能不全のままで政治へのあきらめが続いている日本社会の現状が悲しいですね。

こういった海外からの指摘をもとに対話の場が増えているのは歓迎すべきことですが、そもそも障害者権利条約、子どもの権利条約などの批准の前後に、このような対話を継続して合意形成をおこなうプロセスが現場や国政の場まで十分におこなわれたのかでしょうか?

世界は恐怖と恫喝と力による支配から、対話にもとづく合意からできた法による支配(民主主義)に向かっているはずです。
OSを入れ替えなければいけません。
しかしなかなか変われないですね。日本社会も。
昨今は揺り戻しすら感じられます。

インクルーシブは結果であって目的するのは違うかも

国連やインクルーシブ教育推進派のひとたちは「特別支援教育はあっても、特別支援社会はない。インクルーシブ社会を目指すべき。分離教育はすべきではない」といいます。

差別やハラスメントに満ちたこの日本の社会を変える橋頭堡としてインクルーシブ教育に期待したいという人がいるのは理解できます。
差別をなくすためには差別をなくさなければならないし、教育のあり方は問い直されています。
しかし闇雲なインクルーシブ教育の推進には注意が必要です。
インクルーシブは結果であって目的するのは違うかもしれないなとも思います。

学校は社会の縮図です。モラハラ政府のもと、子どもや教育にかける予算も少なく現場に余裕のない状態のまま放置されています。
そして過度に競争的な普通学級の運営を強いられている教育制度。そんな中で子どもに法教育や人権教育ではなく、支配のための道徳教育おこなう為政者の欺瞞はそのままです。

この状況を放置したままインクルーシブ教育を性急すすめると大人の自己満足のインクルーシブもどきになるのが怖いでです。結果として声をあげられない子どもが差別やいじめをうけトラウマをかかえるリスクにもなる。

ネスティングやそれぞれの少数派に必要な教育を

現状をみると少数派は傷つきやすく声がとどかない現状があります。

さまざまな当事者のセルフヘルプグループ、ピアサポートによるネスティング、そしてそれぞれの少数派にもとめられるスキルを学ぶ場も必要であり、これらも保証されてはじめてインクルーシブ教育システムと言えると思います。
そういった場として、視覚障害者への点字や聴覚障害者への手話、自閉スペクトラム症への余暇活動支援を通じたSSTなどが考えられますね。

そういう場がたくさんあることでアドボカシーとエンパワメントがなされ弱者が声をあげられる力になります。

少数派が声をあげられる場、対話の場を増やしていくことが、対話が文化になり、少数の対話できないならず者たちに政治を私物化されている現状をかえる突破口になると思います。

インクルーシブ教育を推進するために



インクルーシブ教育システムを推進するというのであれば関わる大人たちが、差別を許さない、どの子も絶対に守り抜くという覚悟とともに、知識と技能余裕をもち対話を継続することが絶対に必要です。

まずはユニバーサルデザインを推進しつつ、合理的配慮(対話による調整)、特別支援教育を柔軟に本人が(親や周囲でなく)選択できるようにしていくことだとおもいます。

そのために家庭の教育の外で、個々人の健康と幸福追求を応援できる医療の立場からささやかな対話の場作りを続けていきたいと思う。

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