弱者であり未来でもある子どもを守り育てるために社会があるのでは?

ついに底が抜けてしまった日本社会


自分のメンタルを保つためにこのコラムを書かせていただきました。
少々、重たい政治にも関わる話にもなりますが、もしよろしければお付き合いください。

12月に入り、日本の社会が劣化しているという事実をミクロとマクロの双方からまざまざと見せつけられる事態が続き、私自身、大変重たい気分になってしまっておりました。
それがさまざまな生きづらさを抱えて臨床の場で出会う方々の苦悩と重なって見えてしまいます。

大阪のメンタルクリニックでの放火による大量殺人事件はショックでした。
秋葉原の大量殺戮事件、京アニの放火事件、相模原障害者大量殺傷事件のように、これもまた対話のない状況に疎外され救われず、もはや何も失うもののないいわゆる無敵の人による攻撃性が世界に無差別に向かった事件なのだと思います。

今の我が国の社会状況では、今後も、こういった暴発事件は増えていくでしょう。

国は以前に比べて明らかに貧しくなり、家庭や地域コミュニティが崩壊し、人々は分断され、格差は拡大し、社会から疎外された人が増えているからです。

スウェーデンの政治経済学者ペストフは、ペストフ三角形というモデルを1992年に提唱しました。
人が困った時に助けを求められる組織には家族や地域社会、文化などの共同体、そして市場、そして国家があります。しかし、今の我が国ではそのどれもが壊れて機能不全となってきており、隙間が拡大し、そこに無縁化した人が大勢放り出されています。
その隙間をうめて紡ぐのが、第3のセクターとよばれるNGOやNPO、そして協同組合なのですが、これは日本ではまだまだ弱い部分です。

家庭から、職域から、国から助けをうけられず放り出された人たちは、傷つき、何度も裏切られストレスを超えてトラウマを抱えています。そのうちのごく一部が、うつや依存症などの症状をもとに精神医療にたどりつきます。
そういった人は自分や他人を信じることができなくなっており、自己責任論が蔓延する世の中で自分を責め、世界が怖い場所になり身動きがとれなくなっています。

引きこもっていたり、依存症となっているのはギリギリ生きようとしている姿であり、攻撃性が自分に向かえば自殺になり、外に向かえば他害事件ということになるのでしょう。



市民は国を何のために運営しているのか?

しかし社会のOSである国は、悪質なウィルスに侵され、バグだらけでエラーを頻発しているように思います。
憲法を遵守し人権を尊重し再配分と格差是正を担い、いざというときに公正に国民を守ってくれるはずの国がその機能を果たせずに国民を追い詰めています。
いまやリベラルか保守かということではなく、国民不在の独裁か、国民主権の民主主義かという対立軸なのですが・・。

自公政権は何やらやっている感を出して機能しているように見えますが、市民からの入力を受けつけず、暴走しつつ嘘だらけの情報を吐き出しています。そして国民から預かっているリソースはお友達に配分し、国民は切り捨てて利権構造を保全しつつ政党が生き延びることが目的化しているように思います。これではこの国が衰退するのも当たり前です。

その一つの象徴が森友事件といえるのではないでしょうか。

ご存知かとは思いますが、時の総理の妻が名誉校長となり、国粋主義の教育をおこなう学校法人「森友学園」が小学校を作るために大阪府豊中市の国有地を売却された際に、異常に優遇された価格および待遇において国家と売買取引を行ったという大疑獄事件です。

「私や妻が関係していたということになれば、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめる」と安倍元総理が国会答弁したことに合わせて、その関与を隠蔽するために忖度官僚によりせっせと公文書の改ざんが行われました。そして行政組織の末端で公文書の改ざんを命じられた近畿財務局職員の赤木俊夫さんは苦悩の末に自殺しました。

検察も関係者全員を不起訴にしたため刑事事件としての真相解明は叶わず、国会の場での追求も与党は証拠もなかなかださず、大切な審議の時間をのらりくらりと浪費して逃げ切り、偽証を罪に問える関係者の証人喚問は多数派をしめる与党の力技で行われませんでした。
状況証拠的にはどうみても真っ黒なのに、安倍晋三氏は当選して議員をつづけ、改ざんに関わった忖度官僚は国税庁長官に出世をしました。

この国に果たして正義はないのかと泣きたくなる状況です。

自殺した赤木俊夫さんの妻の雅子さんは、夫の死の真相を明らかにしてほしいと民事訴訟をしました。
しかし、政府(岸田首相)は、絶妙のタイミングで、全面的に国の責任をみとめて求められた賠償金を払うという認諾(にんだく)を行なうことで、この裁判を終わらせてしまいました。
ダメージを最小限にして逃げ切りたい、1億払ってでも隠したいことがあるということでしょう。

国民を大事にしない国ってなんのためにあるのでしょうと、雅子さんは問いかけます。
せやろがいおじさんの赤木雅子さんのインタビューをぜひ聞いてみてください。


情報公開は民主主義の基礎なのに



国民が権力を預けている自公政権は民主的な選挙で選ばれており、これも民意だという人もいます。

しかしそもそも政権運営の是非を問うための判断材料となる統計に不正があったり、公文書が政権維持に有利な方向に改ざんを平気で行われているような状況で、市民がまともに判断できるでしょうか?

権力側は権力構造を維持するためには脅しだろうが嘘だろうが買収だろうが何でもやるようです。
桜を見る会や広島の選挙区で明らかになったように堂々とお金がばらまかれて票が買われており(しかも買収の元手は公費でしょう)それが許されまかり通ってしまっています。

NHKや民放、大手新聞などのメディア、ツイッターでデマをばらまいていたDappiで明らかになったようにインターネットも含めたメディアへもコントロールが及び、民主主義の基本である情報公開がまともにおこなわれていません。

市民はリテラシーを高め、権力監視機構としてのジャーナリズム、メディアが健全に機能するように応援していく必要があります。

森友事件で文章改ざんを命じた佐川宣寿氏は国税局長官に、フリージャーナリストの伊藤詩織さんを安倍首相に親しい元TBS記者敬之氏を強姦したとされる事件で、逮捕直前で逮捕状の執行を止めた中村格氏は警視庁長官になるなど、忖度なのか命令なのかはわかりませんが、法の下の平等はどこへやら、権力者やそのお友達を守った忖度官僚は覚えめでたく出世をしているようです。

こんな状況がつづくと政府や行政組織が信用できなくなりますし、優秀な官僚ほど士気は低下し行政組織からは去っていくでしょう。

「なぜ君は総理大臣になれないのか」で有名になった香川1区の小川淳也氏のような人に立候補してもらいどんどん政治家になってもらいたいところです。



弱者であり未来でもある子どもを守り育てるために社会が、国があるのでは?


さらにもう一つ残念な報道がありました。

子どもをまもるために議論されていた省庁に関して、「こども家庭庁」という案が、家庭に恵まれなかった虐待サバイバーらの声をうけて「こども庁」とする方向にまとまりかけていたのが、一転、与党の保守議員に慮って「こども家庭庁」に戻るというのです。

これでは虐待のサバイバーにとって、話を聞いてやるといって近づき、土壇場で手のひらをかえされるというトラウマの再演です。まさに「スカイダイビング中のインストラクターの裏切り」です。

そもそも子育てや教育を家庭にばかり押し付けず、格差是正装置である公教育を健全に機能させ、社会全体で子どもの権利条約にうたわれたようなこども固有の権利を守るために作るのではなかったのでしょうか。
治外法権になりがちな家庭や学校が温存された今の厚生労働省と文科省の施策あり方では、いじめや虐待などその隙間に落ちてしまう子どもたちの固有の権利を守り支えるために「こども庁」を新たにつくるということではなかったのでしょうか。


子ども関連政策を一元的に担うこども家庭庁は内閣府の外局として設置し、首相の直属機関とするそうですが、人権概念に乏しい今の政権の内閣府の外局で子どもを一元管理なんて嫌な予感しかしません。
空想的保守勢力のお化けがこの国をおかしくしているのだと思います。
道徳が教科化されたように、このままでは教育も彼らに徐々に奪われ、チャウシェスク政権かポルポト政権のようにもなりかねないと危惧します。

人が困った時には、交換できる能力やものがある人は市場に出向けばいいでしょうし、家族や仲間に恵まれた人は家庭などの共同体に頼ればいいのかもしれません。
しかしそれらが難しい場合に社会保障や再配分の機能を発揮させるために社会装置としての国家を運営しているのです。菅元首相は「自助、共助、公助」といいましたが、そもそも公助を担うのが役割の政府が、自助や共助を求めることを言うのは始めからその役割を果たすことを放棄しているとしか思えません。

教育をはじめとして子どもそのものに大きく投資し、家庭がどんな状況であれ次世代の社会の担い手として、それぞれの力を発揮して、さまざまなセクタに参加することで大きく空いた隙間を埋めていけるような市民に育てていくことが大事なのではないでしょうか。


貧困と無知とのたたかい



山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚」の中で貧しい人々に向き合う医師は以下のように言います。

「現在われわれにできることで、まずやらなければならないことは、貧困と無知に対するたたかいだ、貧困と無知に勝ってゆくことで、医術の不足を補うほかはない、わかるか」

「それは政治の問題だと云うだろう、誰でもそう云って済ましている、だがこれまで、かって政治が貧困や無知に対してなにかしたことがあるか、貧困だけに限ってもいい、江戸開府このかたでさえ幾千百となく法令が出た、しかしその中に、人間を貧困のままにして置いてはならない、という箇条が一度でも示された例があるか」

「そんなことは徒労だというだろう、おれ自身、これまでやって来たことを思い返してみると、殆ど徒労に終わっているものが多い」

「世の中は絶えず動いている、農、工、商、学問、すべてが休みなく、前へ前へと進んでいる、それについてゆけない者のことなど構ってはいられない、だが、ついてゆけない者はいるのだし、かれらも人間なのだ、いま富栄えている者よりも、貧困と無知のために苦しんでいる者たちのほうこそ、おれは却って人間のもっともらしさを感じ、未来の希望が持てるように思えるのだ」

江戸時代のことを書いた小説(黒澤明監督が映画化)ですが、まるで今の時代を予言しているようです。
貧困と無知、これらはいづれも選択肢の乏しさです。
貧困の解消と教育への投資が必要です。

国民の不断の努力が必要

社会の、そしてこの国の病は慢性化、重症化し膏肓入っているようです。

根は相当深いですが、市民は連帯して、それぞれの立場からできることを持ち寄り壊れかけた社会を修復していくことが必要です。
私自身は精神医療の臨床をしていると自殺の名所である東尋坊で、自殺を止める活動をしている「ちょっと待ておじさん」のような立ち位置にいるように感じることがあります。

診断と治療といった医療としての役割は果たしつつも、市場と家庭と国家の狭間で排除された人たちが絶望して死ななくてもいいように再び生きていようと思えるように、ささやかなアジトをつくり、それらをネットワークを紡いでいく必要があると感じます。
自立した市民(政治参加する国民)を増やし、社会を、民主主義を修復し、リブートする必要があります。


日本は立憲制の国家です。読んでもらえば分かると思いますが、我が国の憲法自体はなかなかよく出来ていると思います。野党が臨時国会を求めたときの開催期限が明記されていない、首相の専権事項で衆議院が解散できるなどの手続き上のバグはフィックスする必要はありますが。

憲法がほぼ唯一、国民にもとめている責任は憲法12条に明記されているものです。

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。 又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

与党は権力維持のためにはあらゆる手段を使ってきます。
国民はまず憲法は何かということを知り、人権を学び、公権力には憲法を遵守させなければなりません。
憲法を知らない、守らない、歴史を知らない、学ばない、政治を私物化する、あまつさえ憲法を憲法でない国民を縛る何かに変えてしまおうとしているような勢力はさっさと政治の場から退場していただくことが必要でしょう。

自民党・公明党・維新の会のヤバさに気づいてもらいたい。



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