自閉スペクトラム症(ASD)の子どもたちはよく「道徳が嫌いです」といいます。
何人もの子どもから聞きました。
ちなみに私も「道徳」は嫌いです。^^;
これはどうしてでしょうか?
裏が見えないけど裏を見抜くASDの方
ASDは自分が納得する、気が済むということへの優先順位が高い人たちです。
そして周りと合わせて仲良くやる、付和雷同するということは自然にはできません。
つべこべ言わずにこう思え、こういうモンダというモンダ主義が嫌いです。
多数の人とはみているところ、感じ方が違う。
みんなが言うから、偉い人が言うからという理由では納得できないのです。
頑固ともいえるし、芯が通っているともいえます。
しかしそれだけに時に本質をズバリに見抜いているところがあります。
彼らは言行一致していない人を信用しません。
「教えようとしている人たちがそれを守っていない」という真実を、忖度せずに見抜いてしまうのです。
特別な教科とされ必修となった道徳だが
小学校では平成30年度から,中学校では平成31年度から道徳の教科化がはじまりました。
しかも「特別の教科」(道徳科)だそうです。
いじめなどの問題がなくならないからというが、その背景にあるそうですが・・。
「特別の教科 道徳」いよいよスタート!
(道徳の目標)「よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため、道徳的諸価値についての理解を基に、自己を見つめ、物事を多面的・多角的に考え、自己の生き方についての考え方を深める学習を通して、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる。」
自分自身に関すること(例)
[善悪の判断,自律,自由と責任]〔第1学年及び第2学年〕
よいことと悪いこととの区別をし,よいと思うことを進んで行うこと。
[正直,誠実] 〔第1学年及び第2学年〕
うそをついたりごまかしをしたりしないで,素直に伸び伸びと生活すること。
[節度,節制] 〔第1学年及び第2学年〕
健康や安全に気を付け,物や金銭を大切にし,身の回りを整え,わがままをしないで,規則正しい生活をすること。
小学校学習指導要領 (P128)
さて、こういった思想や態度を授業での教科として教えられるものでしょうか?
それで、いじめや差別はなくなるのでしょうか?
私はとても疑問に思います。
道徳教育より人権教育、法教育が先では?
倫理や道徳というのは「道」(倫)です。
先に生まれた人が示す道です。
では、今の社会で、それを教えたがる、大人たち、特に権力をもつ為政者や教師が、そんなに立派な態度ができているのでしょうか?
大人たちの社会は、いじめや差別がない、子どもたちの模範になる社会なのでしょうか?
差別やいじめ等の問題がなくならないのは「道徳教育」がなされていないからではなく、「人権感覚」が養われていないから、そしてそれは、社会の中での対話が圧倒的に足りないからなのだとおもいます。
私は決して普遍的ではない「道徳」を教科として教える教育よりも、それぞれの違いを前提に出発してお互いの幸福追求を尊重するために、継続される対話をもとにした合意から生まれた普遍的な「法律」「ルール」、そしてその成り立ち(民主主義)を教える方が先だしずっと大切だと思っています。
「道徳」はもともとは儒教思想から始まったものです。
それは権力者が庶民の支配に使った思想です。
「道徳」は、誰かがなにかの目的をもって理屈抜きに押し付けるマナー、あるいはまだ法律のように明確に合意にいたっていない暗黙のマナー、よく考えると普遍的ではなく合理的でないものも多いです。
もちろん意味がある場合もあるのでしょうが、明文化された法律よりははるかに曖昧なもので、普遍性に乏しいものです。
自らが道徳を守っていないのに道徳教育を言う人は、権力構造の維持のために社会のおかしさに文句は言わず「自己責任」で生きる態度を育てる目的が裏に透けてみえます。
公教育で、むしろ教えるべきは「人権教育」であり、そし対話をベースにした「民主主義」そして「法学」です。
憲法学者の木村草太さんも以下のようなことを言っています。
これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態
そして、できれば、フランスのように答えのないことに対して、対話をつづけて自分の頭で考え続ける「哲学」も教科にしてほしいとおもいます。
学校の先生方には、道徳の授業の時間には、こういった権力者の思惑を読み取り、面従腹背して、ぜひとも忖度せずに主張や対話ができ、「道徳」を教えたがる人の欺瞞を見抜ける、デモクラティックな子どもを育てる授業をやってほしいと思います。