介護と子育て、子ども若者支援

介護の社会化が進んだ20年でした


当院では老年期、特に認知症性疾患の診療には積極的ではありません。

発達も含めた児童〜若者の診療のニーズが増えていること。診察室は階段でしか登れない2階にあること。治療可能な器質疾患(慢性硬膜下血腫や正常圧水頭症)などを除外して診断するために見ておきたいCTなどの検査機器もないこと。そして高齢者は複数の身体疾患をかかえ、主治医が身体も含め総合的にみていかないと容易にポリファーマシー(多剤投与になってしまう)に加担してしまうためです。

それでも受診している家族の相談からや、近隣の医療機関などから頼まれて診立てや相談をお受けすることはあります。

私自身、ここ数年は児童青年期を中心に学び診療をしていたため、高齢者にはほとんど関わっていなかったのですが、実は以前は農村部の総合病院にいて老年期の方の診療はかなりやっていて中心といっていいようなときもありました。

高齢化の進む地方の病院では精神科でも高齢者の診療というのがどうしても多くなります。
認知症疾患医療センターでもあり、外来、病棟(精神科の老年期病棟)、そして週1コマ、訪問診療にも出させてもらって、看取りまで関わっていました。
特に訪問診療では、戦争前後のころなどいろいろ過去の話を聞かせていただくことができました。
一人の高齢者がなくなることは一つの図書館がなくなることと同じであるといいます。ちょっとしたタイムトリップであり、嫌いではなかったのでしたが、自分の見つけた子ども若者へとリソースをしぼっていくため泣く泣く手放したのでした。


今では認知症は特に長生きすれば誰にでも起こりうる疾患であることが理解されるようになり、特別なことではなくなりました。認知症早期支援チームが制度化され、地域によるとおもいますが身体機能や認知機能が衰えても、訪問サービスや、ケアマネや支援者が付き、デイケアやショートスティ、小規模多機能事業所などの地域資源をつかって家族がいなくても最期まで地域で暮らすことが出来るようになってきていると思います。

2000年に介護保険がはじまり、地域包括ケアシステムができ介護福祉サービスがどんどん多様になり、介護や認知症のケアが社会化していく様子を体感しつつ関わることができました。

その一方で、子育て、子ども若者支援はどうでしょうか?



その後、子育てや子育て支援、若者支援に関わるようになりましたが、この分野は介護に比べて家族に任せられている部分がまだまだずいぶん多いなあと感じています。高齢者が増える一方で少子化がすすむことで政治的関心も乏しいということもあるかもしれません。

日本版ネウボラや子ども庁などという計画はあるようですが、民主党政権でやろうとした子ども手当の撤回、待機児童問題、現場は忙しく画一的な教育、不登校の問題などに関して政治の本気度はまだまだ見えません。
発達障害者支援法、特別支援教育などもはじまり以前よりはジワジワとはよくなってきているとは思いますが。

そして障害者施策はもっと悲惨かもしれません。とくに声を上げるのが難しい精神障害者に関しては・・。

「親ガチャ」という言葉があるそうです。子どもは親を選べない。だから、「どのような親のもとに生まれてくるかによって人生が決まってしまう」という意味で使われているようです。
親が不器用だったり、家族リソースが乏しかったり、障害や育てにくさをもつ子どもの場合はなおさらです。貧困化がすすみ、共働きが当たり前になりました。子育てに実家の助けを借りれない人も増えています。
親も忙しく余裕がない状態です。

まずもって子どもに向かい合える余裕がなかったりします。そこへの手当は十分でしょうか?

親が高所得者であっても、子沢山だったりすると、さまざまな制度が利用できなかったりします。親の干渉ゆえ、子ども若者の権利が侵害されていたりします。




そして「親ガチャ」がハズレでも豊かな人生を送れるように。
支援者ガチャ、教師ガチャ、主治医ガチャ、支援者ガチャ、などで当たりの多めのガチャを何度でも回すことができる社会にしてきたいものです。

教師や支援者、医療などプロとして仕事をする人は、たまたまはずれにあたってみたいなことはなくしていきたいものです。(でも余裕も必要ですので、そこに社会としてどれだけ人手と予算がかけられているかということも大事になります)

そして、どの人も、なんとか自分も世界も嫌いにならずに、いつでも何度でも挑戦をつづけることができ、自分なりの幸福追求ができる社会にしなくてはなりません。

でも選挙はガチャではないのです。



たまたまいいガチャを引当て、運良く力をもち、権力を握っている人でも、自己責任の名のもとにリスクを個人の責任に帰していきたい人がいます。そんな環境にいると自己肯定感を下げ、選んで活きること自体を諦めていきます。
私たちが目指さなければならないのはリスクの社会化です。

人は、そもそも弱者をたすけてるために社会をつくりました。
社会のあり方を決める政治はそのために存在します。

まもなく選挙があります。
選挙はガチャではありません。
選挙権、被選挙権は国民に皆あり、未来を選ぶことができます。
これは民主主義をもとめる運動の中で先人が勝ち取ってきた権利です。

自分は無力で「選べない」と思わされている人も多いかもしれません。
選挙制度も権力を維持している側に有利な小選挙区制になり、教育、マスメディアによってそう思わされていますから。でもそれで都合がいいのはだれでしょうか?

今の国政をみていると、与党が過半数を占め、権力を預けている人たちは、何を勘違いしたのか政治を私物化し、会食をともにする半径5mのお仲間のためだけの政治をしているように私には見えます。

弱い人達、子どもや、知的・発達障がいのある人の存在、精神障がいのある人の存在が置き去りにされることのないように。自分たちの未来は自分たちで選ぶために、かならず選挙に行きましょう。
少なくとも与野党が拮抗する状態にならなければ、今のように圧倒的権力を握った状態では、法律違反、憲法違反すら平気になりやりたい放題となっているようです。マナーやモラル以前の問題です。

学校などでもあまり周知されておらず、若い人の中には知らない人もいて驚くのですが、国政選挙の考え方としてポスターや政策などから熱い、良さげな人を選ぶのではありません。
残念ながら現在の小選挙区制での国政選挙では、候補者それぞれの資質や政策、個人的に世話になったとか、頼りになりそうなどということは考慮する余裕はありません。

国政を現状で是認、与党に国政を信任する→ 自民党、公明党 に投票。無投票、白票
国政を現状に不満、少しでも改善を要求したい→ 野党統一候補 、なければ野党で一番勝ちそうな人に投票。

選ぶのはこれだけです。

トップへ戻る
タイトルとURLをコピーしました