気持ちのいい場所へ

戦争、災害、事件、事故などいろいろとキナ臭い日々ですが、いかがお過ごしでしょうか。楽に、楽しく生きておられますでしょうか?維持したい暮らしと、楽しみな明日はありますか? 大切な人、好きな人はいますか? それぞれの人がそれぞれの幸福を追求し自由に生きるための社会装置として教育があり、憲法があり、福祉(医療も含む)があります。

しかし資本主義において労働力を再生産していくためにも必要な、これらの社会共通資本は、政治や民主主義が機能不全をきたしていることもあり瀕死の状態です。市民の手を離れてモンスターとなった資本主義は人々の欲望と化石燃料をエネルギーに環境や教育、医療、福祉などの社会共通資本をも食い物にして暴走をつづけています。まるでタコが自分の足を食べているような状態ですが、そんな苦境の時代を我々はどう生きのびていけばよいのでしょうか。

先日、「邪気」という言葉を使う人に出会いました。社会からも親からも強烈な邪気を感じるからと自分の部屋にこもり、調子のいいときはインターネットを通じて他の人を癒やしたりしているそうです。「邪気」とは邪悪な気のことでしょうか。この感じはわかる気もします。相手の存在や違いを否定したり、一方的に依存したり、支配をしようとしたり、人間扱いせずに搾取や収奪をしたり、こうあるべきという価値観を押し付けてくる人に対して感じるなんとも嫌な感じのことでしょう。対話が成り立たない状態、言い換えると様々な暴力を受けている状態とも言えるかもしれません。

環境の影響を受けやすい発達障害の方は、これらの邪気の影響をもろに受けてしまいます。本人が自覚していない場合もありますが、心と身体は確実に蝕まれていきます。引きこもったり行動障害につながったり、あるいは邪気を発する人になってしまいます。生きるのに不器用で、傷つく体験も多く、福祉的支援をうけながら生活していた方で「支援臭」がたまらなく嫌だという方もいました。生活保護や障害年金を受給したりするために仕方なく医療には繋がっているものの、当面、就労支援や福祉サービスを利用するのもコリゴリだといいます。

さまざまなケアやサポートを提供する福祉事業所の中にも、これらの邪気や支援臭のために、常にストレスや緊張感、気持ち悪さがあり、とても長くは居られない場もあれば、必要なケアはあるけれど、余計なお世話や干渉はされず、そこに存在して良いと思え、体が緩みリラックスでき、対話が成り立ちお互いに変化していける場、さまざまな可能性に挑戦してみたいと思える場もあります。そんな場をつくっていきたいですね。

安心感と繋がりが感じられる平和な環境、友人や家族と一緒にいるとき、そこでの対話的なコミュニケーションはお互いの自律神経系を安定させリラックスした状態に導き邪気を消し去るでしょう。まずは自分たちの身近なところで、それぞれの良きものを持ち寄って、関わる全ての人にとって気持ちのよい場所にすべく、対話を重ねて実践していくことが、この苦境の時代を生き延びる活路なのではないかと思います。

レボリューションは、“いまここわたし”から始まります。まずは目の前の人の体験に耳を傾け、そして自分の体験を話すところから始めてみませんか?

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