「夢は一般就労です」と言わせないで。

コラム

「普通」ってなんだろう?

残念ながら、この国の人は今、みな忙しく、心を亡くしているようです。
だれもが余裕がなく、対話もなかなかできず、マイノリティーに対して実に不寛容な社会となってしまっています。
その優しくない世界に、頼りないようにみえるわが子を送り出すという不安から、目の前の子どもをそのまま受け入れ本人を尊重した上で、最低限の必要なことだけをわかるように伝えるという育て方ができないということが起こるのでしょう。

親にとって、子どもには強くなってほしい、社会の中で生き抜き「普通に」幸せに生きてほしいという願いは当然でしょう。そして周りと同じように、「普通」にさせようと、脅したり叱ったりしながら本人に合わない環境で頑張らせてしまう。

とくに本人への支援の必要性や特性がわかりにくいときは、その不安を本人にぶつけ、ただやみくもに頑張らせ力で矯正しようとするという安易な方法にとびついてしまいます。

子どもが小さいうちはそれでなんとかなっていたのかもしれません。

しかし、親も想像上の「普通」なるものをもとめた結果、「普通」を求め続けられた子どももやがてありもしない「普通」を求めるようになります。自分を押し殺して周囲に合わせようと過剰に適応して徐々に疲弊していきます。
周囲には悪気はないかもしれませんが、自分の存在を否定され続けた結果、自己否定的になります。

そして、その「普通」なるものとのギャップの中で追い詰められた子どもが、その「普通」をどうやっても叶えられず、その一方で親とは別の価値観を選び親から離れて自立する力もなく、その方法もわからないときに、子どもは強いストレスにさらされつづけます。
そして、残された手段は荒れるか、ひきこもるか、病むかという選択肢しかないことになります。

その段になってかかわる支援者は、本人や親の恨みや悲しみを様々な形でぶつけられるため、かかわるのは非常に辛いものがあります。

「またこのパターンか」と、これまで親子に関わってきた支援者に恨みの一つも言いたくもなります。

非自発的な入院もまた暴力

子どもは言われたことよりも、見てきたこと、されてきたことを学ぶものです。
力で押さえつけられてきた子どもは力で押さえつけるコミュニケーション、そして「強いものには従え」というヒドゥンルールはすぐに学びます。体が大きくなり力関係が逆転してきた時に、子どもは、今度はそれに素直に従って家族を力で追い詰めるようになるでしょう。

そして家族にはいよいよ手がつけられなくなります。
家族も本人も早めに助けをもとめられ、そして誰かがきちんとその助けに応えられればよいのですが・・。

親子で辛い期間が長くなればなるほど、親の側にも自分の苦労や切なさがわかってほしい、承認欲求を満たしてほしいという代理ミュンヒハウゼン症候群的な構造がみえかくれすることもあります。。子どもをおいつめつつも、可愛そうな子どもを頑張って育てる健気な親の立場で承認を得たり、子どもの学歴や就労ヒエラルキーが親の評価のように感じてスパルタ的に頑張らせてしまうというようなことです。

そして、双方に応援団もいないまま医療保護入院(※)、警察の介入から措置入院(※)などの非自発的入院へとなだれ込むプロセスは実に切ないものです。

※ 精神科病棟への非自発的入院にはいくつか種類があるが、医療保護入院は本人は入院を拒否しているが医学的に入院が必要な状態の場合に家族の同意を得ての入院(精神保健指定医が判断)。措置入院は精神障害により自傷他害の恐れがある場合にお上(都道府県知事)の命令での入院(2人以上の精神保健指定医が鑑定する)。警察→保健所のルート(24条通報)が多い。いづれも保健所、精神保健福祉センター等が関わる。入院中本人の権利擁護がなされ、不服申し立ても可能。



とはいえ、自分が主治医でない場合、医療につながっていないケースに関して精神保健相談をうけた場合には「対話を継続しつつも、警察に相談して何かあったら動いてもらい入院へつなげる」をみたいなアドバイスになってしまうこともあります。

また実際にそういった場面で精神保健指定医として措置鑑定する側に回った時は、自傷他害の恐れがあり、入院以外のリソースが乏しいことを知っていると措置不要とは言い難いものです。

医療モデルでなんとかなる病態ならそれでいいいのかもしれません。しかし特に知的・発達障害の場合は、本質的には薬で入院治療してよくなるという問題でもなく、自由を制限され恨みをもった本人と家族との関係が悪化してさらに複雑になるということもあります。

司法ルートから本人に自分の行為への責任を問いつつも適切にケア(育てる関わり)がなされる見通しがもてればよいのでしょう。しかし警察や支援者も入院で治療してほしいと避けたり、親を責めたりすることもまだまだ多いです。医療の問題にしても入院も薬も万能ではないのでそこで詰みます。つまり退院できなくなります。

しかし、そうでもしないと力を持つ親から離れられないという膠着した構造になってしまっていることもあります。
措置鑑定の場面で、また病棟を背負っていない立場では入院というカードももちいて本人の自発的に選択できる逃げ場所をつくり、子へのエンパワメントと親へのグリーフワークを同時に行いつつ対話の場を設定するのは難しい。
非自発的な入院の先に、本人と家族が良い支援者に巡りあえるようにただ祈るしかありません。

精神医療での非自発的な入院は、精神保健福祉法に基づき、さまざまな人が間でかかわり、各種の監視は入っている分、合法であるかもしれません。しかし力に対して、力で押さえつけるという暴力での応酬になり本質的には引き出し屋と変わりません。
外来主治医と、鑑定医と入院主治医がバラバラで結局誰も責任とれないのも問題でしょう。

暴力というコミュニケーションと警察の役割


家族の中で、暴力による歪なコミュニケーションになってしまっている場合、斎藤環先生の記事など参考になります。

家庭内暴力(精神科医、斎藤環先生の記事)

家庭内暴力の入院治療は、本人が納得した場合にのみ有効ですが、強制的な入院(とくに安易になされる医療保護入院)はほとんどすべての場合失敗します。家庭内暴力のケースは、強制的に入院させてしまうと、病院内ではまったく「良い子」として振る舞います。診断のしようもなく、なんの問題行動を起こさない患者さんの行動制限は法的に不可能で、せいぜい長くて一ヶ月程度で退院になるでしょう。こうして家族への恨みをつのらせながら帰宅した本人が、以前にも増して激しい暴力を振るいはじめるのは時間の問題です。


外来でこういったケースにかかわっており、対話を重ね、警察とも本人は責任がとれるから司法処遇でと話をしていても、家族が耐えきれなかったのか、いつのまにか遠くの病院に措置入院していたと聞くこともあったりするとチームの無力さに悲しくなります。
警察もトラウマインフォームドに、知的・発達障害や精神障害を知った上でチームを組んで関わってほしいと思います。お願いするために以下の文章を以前書きました。

発達支援における警察の役割
一般的に社会的規範を逸脱する者に対しては、社会は①司法処遇(矯正)、②教育処遇(教化)、③医療処遇(治療)のいづれかで対応することになります。統合失調症の幻覚妄想状態や躁状態などによる心神喪失の状態であれば、非自発的な精神科病棟への入院し...

社会全体として、本人の存在を肯定しつつも、本人が自分の行為に関しては責任を自分で抱えらえるような環境をひたすらつくっていく必要があります。

それが本人への人権尊重です。

「夢は一般就労です」と言わせないで。

診療の場面ではしばしば本人の夢や願いを聞きます。
特別支援学校の生徒さんなどで「夢は一般就労です」「B型作業所には絶対に行きたくない」などというのを聞くことがあります。
どこからか取り入れてしまった価値観(BよりAの価値観)に縛られ、それができない自分を痛々しいくらいに追い詰めてしまっています。

「オイルの匂いかきながら車と関わっていれば幸せ」とか、「外で自然と関わって働くのが向いています。」というように具体的に好きなことや、できることが自分でもわかっていて、それをもとに人とのつながり、社会とのつながりを探っていけるのならどんなにいいでしょう。
たとえ上手でなくても役に立たなくても好きなことのつながりで仲間ができ社会と繋がり、たとえ好きじゃなくても嫌いでなくて出来ることで仕事として社会と繋がれます。

高学歴であっても「大企業で働くことが幸せ」「博士にならないと親に認めてもらえない」「結婚して家を買わないと一人前でない」などのどこからか取り入れた自分を縛る価値観にあわせた自分になれないことから、ただひたすらに責めて身動きがとれなくなったり、あっさりとだまされたりします。
軽度知的障害の女性の場合など、性被害にあったり人権侵害されたりということもよくあります。

社会全体が上向きで、あまり考えなくてもみんなと同じようにしてさえすれば成功体験のようなものをつめた、しかし、本当には自分の思ったようには生きられなかった親世代の生きた時代とは社会の状況からしてさまざまなことが違います。
しかし、それがなかなかわからない親世代の人も多いように思います。
社会だけではなく親からもまた追い詰められる。自分が受け入れられず、その結果、追い詰められ命を断つ方もいます。

就労や自立は結果としてそうなればいいよねというものであり、あくまでそれぞれの幸福追求のための手段の一つです。これらを目標とすると大体こじれます。
特に、いちばん身近な家族が自分の価値観が絶対であると信じ子どもにもそれを押し付け、他の価値観に触れる機会がないと、本人はそれを容易に取り込んでしまう一方で逃げ場をうしなってしまいます。

親は仕方ないかもしれませんが、支援者までが子どもではなく親と同じ方向となって、子どもをただただ親と同じ価値観で頑張らせるというのはそろそろおしまいにしてほしいです。
親ガチャはともかく、支援者ガチャに関してハズレを引き続ける状況は困ります。

まずは他人をかえようとするのではなく、まず自分が変わることです。対話にさえなっていれば双方が変化せざるをえませんから。
それぞれの支援者が縁があった人とは丁寧に対話を繰り返し、親子の選択肢が増え選べる関わりをするのみです。
支援者、親向けの以下の講演会へもぜひご参加ください。具体的な関わり方について学べることと思います。ぜひご参加ください。

3/31,4/1 はっはっホホホ。高森信子先生の「信頼関係を作る・会話の基本」講演会
精神障害の家族教室、親のSSTなどを全国行脚されている高森信子さんの講演会のお知らせです。毎年安曇野市の家族会、三郷にに八会が中心となって主催されて開催され、私も3年前に参加させていただきました。当事者との生活にすぐ生かせる具体的、実践的...


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